<週報:
No.2,788
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2,897回例会 2017年1月27日(金)
司 会 |
伴在賢時郎 副SAA
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出席報告 |
本日55.00% 22名欠席、前回訂正86.05% 7名欠席
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前々回訂正93.02% 4名欠席
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ラッキーナンバー |
25 埋橋伸佳君
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ニコニコボックス
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藤森郁男君
本日の卓話をさせていただきます。
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川村総一郎君
本日はプログラム委員会が担当させていただきます。
藤森郁男君 卓話をお願いします。
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早出由男君
先週はガラスの里を見学させていただき、とても楽しかったです。
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奥村達也君
2回連続での欠席、失礼いたしました。
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埋橋伸佳君
ラッキーナンバーに当たって。
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会長告知 伊藤武利会長
ノロウイルス、インフルエンザが大流行しているようです。皆さんお気を付けください。
本日は藤森郁男会員より、諏訪RC創立時の裏話をお聞きできるようです。楽しみにお聞きください。
前回は、朝鮮特需のおかげで日本の経済は立ち直ることができたとお話をしました。
今日は神武景気のお話をします。我が諏訪RCが設立されたころ、まさに神武景気の絶頂期でした。
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神武景気という名称は、どうやらマスコミの一部から出たようです。あの頃は、
色々なことに“歴史始まって”以来という意味で“神武”以来という表現をしたらしいです。
ご承知の通り、この方は日向の国、今の宮崎県にいましたが、天下統一を目指した方です。
北九州から中国地方を経由して奈良盆地を目指しました。そこで戦に敗れ、兄が亡くなります。
あらためて吉野山を経由して橿原に都を定められています。結局52歳で天皇に即位して、
さらに70年国を治めた。亡くなったのは御年137才であると日本書紀にはあるそうです。
壮大な話だと思いませんか?古事記や日本書紀を中心とした、日本の神話を紐解いて
みたいと思いませんか?
前にも申し上げた通り、昭和20年を境に急に日本神話の話をしなくなってしまった。
それまでの教育があまりに偏っていたために、先生達も神話に触れなくなった。
歴史の授業でも明治以降の出来事を避けてしまった。もう一度、この雄大な話を
掘り起こしてみたいと思います。
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幹事報告 竹上幸浩幹事
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先週の「諏訪ガラスの里」職場例会に多くの方にご参加いただきありがとうございました。
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諏訪湖RCの方がIMの宣伝に来る予定でしたが、インフルエンザとのことで来週に延期となりました。
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今週は、藤森郁男会員に卓話をしていただきます。
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来週は、50周年の時の事務局でお骨折りいただきました、河西正一会員に卓話をしていただきます。
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糸魚川市の火災義援金につきまして、寄付金を送金させていただきましたのでご報告させていただきます。
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クラブフォーラム 会員卓話
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プログラム委員会 川村総一郎副委員長
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本日はプログラム委員会が担当し、60周年に向けて先輩方より卓話をお願いしています。
2回目となります今回は、藤森郁男会員より『60年前のロータリーの状況』をお話いただきます。
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諏訪RCは、今年60周年ですから還暦です。なので、普通の周年とは違った意味を持つと考えます。
創立時代のお話をということで様々考えてみましたら、創立時期を知っている方はおられません。
私もチャーター・メンバーではありませんが、初代会長の藤森伝一は私の祖父になります。
1957年、昭和32年創立ですから、私は高校2年生でした。当然メンバーでもなく、ロータリーの
内容など知る由もありません。
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では、なぜこのお話ができるかと言いますと、当時は3世代同居家族でして、なんとなく家族内で
見聞きしておりました。父は、あまり諏訪にいなかったので欠席が多く、私が欠席連絡をよく頼まれて
いました。
家族では3代目のロータリー会員です。商売も代々伝わっていて、祖父、父から教えてもらうことも
多かったです。会社に入社した時には、すでに10年キャリアのある人達と同じ程度の情報を持って
おりました。それが非常に助かりました。
1957年は戦後の経済復興も一段落して、ぼつぼつ精密工業が盛んになってきた時代でありました。
商工会議所の会頭写真を見ると分かりますが、初期の会頭は、酒屋さん味噌屋さんが多く、その後、
三協精機の山田さんと、写真を見ているだけでも経済の移り変わりが良く分かります。衣食住中心
の産業形態から精密業への移行期であり、異業種交流という問題が出てきたと思います。
新しい産業の人達とどう付き合っていくか、ロータリー創立期はそういった下地があったの
だと思います。何もなくてロータリーを作ったわけでなく、異業種交流意識がベースになったと
思います。いろんな業界の方とお付き合いができる、これが最大のメリットであり、勉強になった
と思います。
長野県で2番目にできた諏訪は、松本クラブの指導の元、核になった人達は21名と聞いております。
皆さん明治生まれで、日本の近代化を背負ってきた人達なので、考え方に芯が通っていました。
寺島先生等が音頭を取っていたのではと思いますが、布半の藤原さん、日赤の佐藤院長先生、
松井さん、土橋さんが当時、事務局もありませんから、皆で自宅に集まり、随分と話し合いが行われて
いたと記憶しています。
初めてのことなので皆で受け持ち動き、それでも人数が足りないので、母親、姉、会員の子供と
家族総出で作っていました。それによりとても良いクラブになっていった、これが諏訪の特徴だと
思います。県2番目のクラブなので他はあまり参考にできない、まさに諏訪の流儀という独自の
方法が今でも多く残っている理由かと思います。音楽もピアノの生演奏でした。
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家族会もその当時からあって、チャーター・ナイトも家族会の皆で実施しました。ただ、
大変威厳があり、奥様達も髷を結っているので、若い人達はなかなか近寄り難かったようです。
私はその中でメッセンジャーボーイをしていました。米国から英文の書類が届き、祖父は分から
ないので、それを布半の藤原さんの所に持って行き和訳をしてもらい祖父に見せる。そんなことを
繰り返ししていました。
そして、創立から23年経った年に私は入会します。突然の電話で布半に呼ばれ、それが入会日
でした。オリエンテーション等ありませんでしたし、何も分からず役目を与えられ、ガバナーの
意味すら分かりませんでした。
1980年代、まだ地区が一緒だった名古屋へよく行きました。その際、私は運転手で先輩方を
乗せていく道中、色々なお話をしました。今思えば、それがオリエンテーションであり
大変勉強になりました。そして、ロータリーを理解することができたのです。やはり、先輩が
後輩につなげていくにはどうしたら良いか?普段の活動から教えていくこと、活動を通じて
身につけていくことが大切だと思います。幹事、会長をやると、より一層それを感じることができました。
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