riemblem  International District 2600 諏訪ロータリークラブ週報

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2,772回例会 2014.4.25(金)  No.2,663


司  会 河西正一 SAA
出席報告 本日70.73% 14名欠席、前回訂正88.10% 6名欠席、前々回訂正90.70% 4名欠席
ラッキーナンバー No.18 平林明君

ニコニコボックス 親睦・クラブ親善委員会 三宅正人委員
朝倉英仁君、笠原宏文君
お花見例会、多くの会員、ご家族の参加ありがとうございました。親睦委員の皆さん、大変楽しませていただきました。会場の提供、パフォーマンス、古屋委員長ありがとうございました。
大和先生、卓話よろしくお願いします。
大和眞史君
念願の黒字決算でニコッ。卓話を担当させていただきます。
北川和彦君、早出由男君
結婚記念日のお花ありがとうございました。
河口譲君
お花見例会、ドタキャン大変申し訳ありませんでした。
平林明君
ラッキーナンバーに当って。

会長告知 朝倉英仁会長
 本日は現在に至るまでの樺太の生い立ちをお話します。
 @日露競合前−氷河期には大陸と陸続き、南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族、北部にニヴフ民族がいました。
 A日露の領土競合時代−蒙古が3,000人の軍勢を派兵し住民を制圧、豊臣秀吉が松前藩に先住であるアイヌの保護を命じ、松前藩に税の徴収を認めました。松前藩の領地に樺太が明記され幕府に提出されていました。
 B全島のロシア領期−1853年に北樺太北端、クエグト岬にロシア国旗を掲げ領有を宣言。翌年、1854年、日露和親条約により国境を定めず従来どおりによることを決定しました。
 C南部の日本領期−1857年5月7日、樺太・千島交換条約締結により日本は樺太の領有権を完全に放棄して全島がロシア領となりました。
 D内地時代−日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻して全域を占領、1905年ポーツマス条約締結により北緯50度以南を南樺太として日本の領土としました。
 E戦後の樺太−1946年1月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より日本政府に、日本の政治的、行政的権限の施行の中止が司令されました。冷戦下、1952年3月20日にアメリカ合衆国上院はサンフランシスコ条約の解釈から南樺太および接近する島々、千島列島・色丹・歯舞群島及び、その島々の権利・権益・権限をソビエト連邦に引き渡すことはサンフランシスコ条約では含んでいない、という決議を行っています。
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幹事報告 笠原宏文幹事
先週はお花見例会に大勢の皆さんがご参加いただき、ありがとうございました。親睦委員の皆様ありがとうございました。
大和先生、卓話よろしくお願いします。
5月9日18:30〜新旧役員・委員長引継会を行います。場所はぬのはんです。

米山功労者表彰伝達式
朝倉英仁会長から対象会員に表彰品が授与されました。
米山功労者
 三井章義会員(第14回メジャードナー)
 伊藤武利会員(第1回)

委員会報告
ロータリー情報委員会 三井章義委員長
 米山奨学生に関して、「中国人留学生をなぜ大勢合格させるのか」という質問についてお話をいたしましょう。
 先ず、その背景を観てみますと、現在日本に来ている留学生の総数は13万7千人です。その内、中国の留学生の割合は62.7%です。韓国12.1%、台湾3.4%、ベトナム3.2%の順になっております。
 そこで質問にお答えします。
  @意識的に多く採用しているわけではない
  A中国人留学生が他の国に比べて圧倒的に多い
  B学業成績や面接でみるときわめて優秀な学生が多い
  C指定校での学内選考で中国人留学生が多く選考される
  Dロータリーの考え方の基本には国境はない
  E2600地区ではできるだけ多くの国から採用している
 ということです。
 次に、この件について考えるときの留意点(私個人の意見)としては、
  @ロータリーの目的は国際理解と世界平和
  A人類は一つの考え
  Bロータリーは政治とは無関係
  C一時的な感情に走らず冷静に対処
  D中国の人口は12億
 となります。
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三井章義委員長


クラブフォーラム プログラム委員会
 「貝原益軒『養生訓』を巡って」
大和眞史会員
■2014.4.9天声人語
 東芝社長にして経団連会長だった石坂泰三は、健康法に無頓着だった。定期健診などで時間をつぶす気はない。あるとき言ったそうだ。「ぼくの体のことは、八十年もつき合っているぼくが、いちばんよくわかっている。十五分や二十分ぐらい診た医者に、わかってたまるか」。 ・・・・・・ 石坂は88歳9カ月で天寿を全うした。鷹揚ぶりを仰ぎつつ定期健診は皆勤としたい。
■貝原益軒、人となり
 1630(寛永7)年に福岡県(筑前)黒田藩の下級武士の子として生まれた。19歳で黒田藩に仕官、すぐ免職。江戸に出て医者になろうと苦労(25歳、どん底)、27歳で再就職。6人扶持。28歳から京都へ藩の支援を受けて遊学7年間。本草学も勉強。34歳で福岡に戻って、藩士や幼君に儒学の講義を始めた。71歳で辞職するまで藩士兼学者として仕えた。辞職後、御用学者としての40年から解き放たれて、かねて耕し、かねて植えた木々は今、実をつけている。これを取り入れるまで死ぬわけにはいかない。そこに養生の必要があり、生命との競争が益軒に寸陰を惜しませた。「これよりまた遠く遊ばず、もっぱら著述を事とす」。その学問は、晩年に広範な著作として残り、わかりやすい記載でベストセラー。
■養生訓に書かれていること
 益軒は哲学者であって医学者ではない。益軒自身は虚弱でしばしば病気に苦しんでいた。それだけに、絶えず健康に留意し、体質改善に努めた結果として85歳という長寿を得た。養生訓においては、江戸人の価値観・人生観のもとに「いかに生きるか」を説く、健康の思想と実践を述べた書。江戸時代随一のロングセラー。
■現代医学の立場で養生訓に学ぶとすれば
 養生訓は、志ある人間は医学をいかに見るかについて最も多く教えている。益軒の医学観を知るためには、彼が最も多く自然治癒を体験した人物であることを忘れてはならない。「薬を飲まないで自然に治る病気が多い。これを知らないでむやみに薬を使って、薬に当てられて病気を重くし、食欲をなくし、長く治らないで死んでしまうものもまた多い。薬を使うことには用心しなければならない」。

 貝原益軒の養生訓を読んでみて。皆さん、体を大事にしてますか? 体の手入れは人生観そのものです。
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大和眞史会員


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