riemblem  International District 2600 諏訪ロータリークラブ週報

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2,673回例会 2012.02.17(金)  No.2,564


司  会 藤森和敏SAA
ゲストビジター 慶応義塾大学 名誉教授 藤森三男様、米山奨学生 宋寒さん
出席報告 本日78.57% 13名欠席 前回訂正88.89% 6名欠席
ラッキーナンバー No.26 三井章義君

ニコニコボックス

 増沢洋太郎君
  本日、担当例会をさせていただきます。藤森先生卓話宜しくお願いします。
 太田信男君
  藤森先生本日はありがとうございます。
 笠原宏文君
  式典・祝宴合同委員会欠席深謝。
 宮坂直孝君
  連続欠席恐縮です。本日早退深謝。
 宮島康君
  本日早退深謝。
 三井章義君
  ラッキーナンバーに当たって。


会長告知 河西正一会長

 皆さんこんにちは。藤森先生、後程宜しくお願いします。
 今月は「世界理解月間」です。2月に御神渡が4年ぶりに出来ました。小さな御神渡でしたが、全国ニュースになり、東京からも連絡が あったり店でも話題になり、小さくても影響あるなと感じたところであります。
 本日は「小豆」についてお話します。小豆はマメ科の一年草で、5月下旬に種をまき10月収穫します。大豆と同じくアジア育ちの豆で すが、原産地は中国西南部からインドシナ・ビルマなどヒマラヤ山脈に広がる地域だと言われています。「小豆」という名前は、平安時代 には「あかづき」と呼ばれいたものが、江戸時代に「あずき」と呼ばれるようになったそうです。「あ」は赤色、「ずき」は溶けるの意味 があり、赤くて早く軟らかくなるので「あずき」になったとされています。古代には薬として使われており、血栓を溶かす作用があったよ うで、昔は産後の肥立ちの悪い女性に小豆粥を食べさせていたそうです。小豆は連作ができず3年ぐらいの周期で回しており、北海道では 小麦や白豆などと回しておりかなり面倒くさい作物ですが、最近は北海道でもお米ができることから、空知あたりでは小豆をやめてお米を 作る地域も出てきています。小豆の産地が少なくなると私の商売としては非常に困ります。 素材
 小豆には「大納言」と「普通小豆」があり、羊羹には普通小豆を使います 。大納言は周りの殻が固く煮ても割れにくいということで、昔は「切腹」を嫌うことから腹の割れない豆「大納言」と名がついたようです 。小豆は5月に植えて10月に収穫するわけですが、最初と最後が肝心で、一番心配なのは9月に早霜がくると全部だめになってしまうこ ともあります。一昨年は天候が良すぎて粒が小さく色も悪かった年で、昨年は最後に雨が降り、その雨がさやに入り少し出来が悪かったよ うです。
 小豆というと先物取引のイメージが強く、「素人は小豆と生糸には手を出すな」という言葉もありましたが、最近はそれほど相場の上下 はありません。平成6年頃は小豆があまりできず、価格が3倍になったこともありました。主原料が3倍というのは非常に痛いのですが、 その時は小豆自体の量が少なく、いくら高くともということで大変苦労した年でした。また、小豆相場を扱った小説で梶山季之の『赤いダ イヤ』があります。小豆に対して大豆もありますが、日本での生産は大豆4に対して小豆1、需要では大豆46に対して小豆1と大変少な く、一部の地域で作っており天候不順などの影響を大きく受けてしまいます。小豆は中国からの輸入もありますが、関税でなく量で制限さ れていますので、小豆の輸入枠によって国内産の値段も影響を受けます。その輸入枠自体も砂糖を入れると枠外の扱いとなり、大手メーカ ーでは餡子として輸入したり、極端な場合は水に浸けて「モヤシ」として輸入したところもあったようです。
 秋に小豆が収穫されると来年も私の商売ができるなと感じます。今年は何とかうまくいきそうです。


幹事報告 伊藤武利幹事

2月13日に諏訪グループの会長・幹事会がありました。会合の帰り際に河西会長より「ようやく3 分の2が終わった」との振り返りの言葉があり感激しました。残りの期間もみなさんご協力を。
3月4日のIMに18名が参加予定です。新入会員の紹介のほかに出し物も必要で、当クラブからは 玉本会員を中心とした軽音楽隊を予定しています。事前に猛特訓します。
岡谷エコーの「自然の玉手箱」と当ロータリーの55周年事業に各々20万円の補助が確定しました。
諏訪グループの全体名簿をする話があり、当年度中に完成させる予定です。幹事にて取りまとめます。
IMへの一般参加申し込みは2月24日です。

米山奨学金授与 宋寒さん

 皆さんお久しぶりです。奨学金ありがとうございました。
 先日、茅野ロータリークラブ例会に参加しました。15分の卓話もさせていただき楽しい時間を過ごしました。諏訪日赤小口先生の紹介 で諏訪日赤で弟を診ていただきました。昨日は山崎さんご家族との食事にお招きいただき、本当の親のようでとても感激しながらおいしい 食事をいただきました。米山奨学生に選んでいただき皆さまとも出会え、奨学金よりももっと「重いもの」をいただきました。ありがとう ございます。
 来週24日は大学修士の論文発表会、3月24日は卒業式です。是非私の大切なひととしてご参加いただけたらありがたいです。


委員会報告 

◇55周年記念誌委員会 朝倉英仁委員長
 未だ原稿が集まっていません。何一つ印刷会社に渡せていない状況です。式典まで2ケ月しかない状 況で原稿が揃っていないのは如何なものでしょうか。家族写真についても10名の方が未提出です。在籍46名でこの状態は本当に如何な ものかとこの場で皆さんに訴えたいと思います。記念誌の校正や会長に目を通していただく時間も勘案すると時間はありません。ほかにも 記念事業の事柄も何一つできていません。55周年をみんなで気持ち良く祝うためにも、お願いした文章・原稿を早急に提出いただきます ようお願いします。


クラブフォーラム  国際奉仕委員会 増沢洋太郎委員長

 2月は世界理解月間ということで、本日は慶應義塾大学名誉教授の藤森三男先生に卓話をお願いいたしました。
 先生は当クラブの藤森吉三君の弟さん、藤原吉彦君のお兄さんでございます。長い間、慶應義塾大学の国際センター長をお務めになり、 留学生の責任者としてご活躍されました。ご本人もアメリカをはじめ多くの海外留学をご経験されております。長野日報の「面白考現学」 も執筆されています。
 先生宜しくお願いいたします。

卓話  慶應義塾大学名誉教授 藤森三男様 「留学と国際親善」

 皆さんこんにちは。私は血縁・地縁ともこちらのクラブとは非常に縁があり、この場でお話しができるということは大変光栄です。本日 は難しい話をするつもりはなく、雑談めいてお話をしますが、先に結論めいたことを言って、あとは自由にしゃべらせていただきます。
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藤森名誉教授による卓話
 皆さんは留学生の面倒を見る立場にあたる方々ですが、「留学する人に対しては、ぜひ寛大に取り扱っていただきたい」というのが本日 の結論です。どういうことかと申しますと、世界中の原則であり、たぶん日本が一番その傾向が強いのですが、ものの考え方が「ギブアン ドテイク」でできています。例えば、誰かに旅行の土産をいただけば自分が旅行した時は同じようにみんなに振る舞うというのが、我々日 本人の原則的な行動様式であります。これがもう少し長くなると「義理」と言います。この地方には「お義理」という言葉があります。人 が亡くなると「お義理」をする。これは帳面に付けてやがて返すことになります。古い「お義理」の帳面には卵や米をいただいた記録を付 け、互いの社会的地位がどのように移ろうが、同じ価値のものを返すというのが昔からのしきたりで、貸し借りと同じような感覚です。
 もっと長い期間で捉えるのが「恩」です。これは世代を超えるものだというのが、外国の社会学者が日本を研究した時に表現します。 いわく、日本人の行動様式は貸し借りで出来ている。一番短いのを「貸し借り」、中期に短いのを「義理」、長い世代に亘るのを「恩」、 ということです。
 この季節になると「我が師の恩」という歌があります。この歌の作曲者は信濃高遠の藩士であった伊沢修二です。もしも、この人物が留 学していなければ日本は変わっていたと思います。「もしもこの人物が留学していなければ日本は変わっていた」という人物を3名挙げる とすると、「空海」「福沢諭吉」「渋沢栄一」です。そしてもう一人付け加えるとすると伊沢修二です。伊沢修二は高遠の藩士で大秀才で した。幕末に高遠藩から江戸へ上京した後、明治政府から役人として雇われ、名古屋の愛知師範学校校長となり、その後、音楽教育のため アメリカのボストンに留学しました。その理由は定かではありませんが、武士出身でありながら三味線を弾くことができたようで、それが 関係したのかもしれません。ボストンでは師範学校(現在のボストン大学)に留学し、当人の希望で学生として留学しましたが、規定の2年 間では肝心の音楽の単位がとれず、その後猛烈に音楽の勉強をしたようです。当時彼を手伝ったのがイタリア人のジェイ・メイソンで、後 に日本音楽の恩人になる人です。彼の手助けで1年遅れで卒業できました。メイソンは日本の音階が5音階で出来ているということを教え てくれました。伊沢は帰国後に上野音楽学校の初代校長となり、音楽取調掛に任命されると、このメイソンを日本に招きました。また、伊 沢は小学校から音楽を導入しようということにも取り組み、出来上がったのが「小学唱歌」です。小学唱歌集をメイソンと作成するにあた っては、外国の讃美歌などに日本人にわかりやすいような詩を付け、または自家製の作詞作曲で唱歌を作り、いかにも良い唱歌集を作り上 げました。これらは音楽専門家から高い評価を受けています。「蝶々」から始まり「蛍の光」「我が師の恩」などです。「我が師の恩」は 作詞作曲とも文部省唱歌と表記されていますが、研究によりますと伊沢修二の曲だそうです。なぜならば、曲の音階が信州弁でできている からだそうです。「我が師の恩」の部分でわかります。関西弁とは明らかに違います。諏訪の言葉も少し特徴があり、関東弁と関西弁が混 じっているそうです。これらの作曲には「よ」「な」抜きの音階が使われ、後に軍歌がそれを採用し、演歌が受け継いでいるといわれてい ます。
 伊沢修二は日本の音楽界に多大な功績を残していますが、音楽以外にも貴族議員としての大業績があります。貴族議員になった後に当時 占領下の台湾に派遣され、台湾の教育を司りました。台湾人がとても紳士的なのは当時の良い教育のおかげだと思います。台湾北部の士林 という街の公園には「六士先生遭難之碑」があります。日本から赴任した先生方がゲリラ襲撃により亡くなった事件を追悼する石碑です。 戦後の一時期は埋められていましたが、現在は復元され台湾の「教育神社」として扱われています。この原点も伊沢先生です。伊沢先生は 生前に「私はボストンにお世話になった。私はボストンにお返しするだけでなく、日本にもお返しする。そして、台湾にもお返しする」と 言われたそうで、この考え方が先生の音楽や教育の原点になっています。 素材
 私の国際センターでの留学生の取り扱い経験から申し上げると、留学生にはいつも次のように言っていました。これは慶應の小泉塾長が 学生に伝えていた言葉で、私も大学に残った当時、小泉塾長より直接いただいたものであります。「君には自分のために一生懸命研究・勉 強をしてもらいたい。しかしそれだけではいけない。君の家族のために一生懸命やらねばならない。そして、能力のある人は、慶應義塾の ために一生懸命やらねばならない。しかし、それだけ能力のある人はそれだけではいけない。あなたのようにもっと能力のある人は、世の 中のために一生懸命やらねばならない。」という言葉です。つまり、社会は同心円型にできており、力のある人は外に手を出して手伝って あげないといけないという考え方です。同心円型に考えるというのは日本人にとって分かり易いものです。西洋やイスラムでは自分と神様 が直結しており、他の人や社会は関係ないという考え方が普通です。しかし、アジアの人々は日本の考え方と非常に近いです。私が育てた 博士は10名います。アジア各地にいる彼らからは、現在でも「先生の日」というナショナルホリディには必ず電話がかかってきます。西 洋人の教え子からはそのような連絡はありません。つまり彼らは「我が師の恩」という長いスパンで貸し借りを考えています。たくさん貰 ったので沢山返すというギブアンドテイクでの恩返しが成立しています。
 大学には3つの仕事があります。「1研究、2教育、3社会」、一生懸命するのもこの順序になりますが、学生達を育てるにあたっても 、しっかりと彼らの面倒を見ていくよう努めてきました。今となっては、そういったことが恩として返ってくるという観点から、最初に申 し上げましたように、皆さまも寛大に、お金だけでなく、時間的に出来うる限り留学生たちの面倒をみていただければ、やがて利子を生ん で還ってくるということがあろうかと思いますので、どうぞ宜しくお願いします。ありがとうございました。

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