riemblem International District 2600 諏訪ロータリークラブ週報

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2628回例会 2011.02.25(金)  No.2519


司  会 藤森省作SAA
出席報告 本日78.26% 13名欠席 前回訂正85.11% 9名欠席
ラッキーナンバー No.38 小口寿夫君

ニコニコボックス
 折井俊美君
  関口さんより家に持って帰れない写真をたくさんいただきました。
 古屋了君
  藤森貞雄先輩より写真をいただいて。
 宮島康君
  会議と人間ドックが重なり今月は初の例会です。
  RCのホームページは更新していますので是非ご覧ください。
 玉本広人君
  連続欠席申し訳ありません。
  結婚記念日においしいチョコレートをありがとうございました。
 小口寿夫君
  ラッキーナンバーに当って。

 山崎壯一会員から報告
  ニコニコボックスではありませんが、エバーハートの出荷が本日始まりました。
  生体第1号の後に改めて報告させていただきます。

会長告知 折井俊美会長

 皆さんこんにちは。先週の例会はお休みをいただきました。造園の組合の関係で旅行がありまして、河西エレクトさんに代わりをお願い しました。河西さんありがとうございました。
 組合ができてから40年程になりますが、仲良くやっていまして、2泊3日でいろいろなお話ができました。私の仲のいい友達の娘さん が、某金融機関に就職しましたが、4年間勤めた後に退職して、どうしても英語を勉強したいとのことでニュージーランドに行きました。 例のクライストチャーチの語学学校に行っていました。彼女はずっとスケートをやっていて「すばしっこい子」で、グラグラっときたから 慌てて逃げ出し、何ともなくて助かったそうです。一緒にいて逃げ遅れた人達は、まだ瓦礫の下にいるそうですが、ちょっとした違いで その様な結果になっています。地震が発生してから今朝で72時間、ちょうど3日間が過ぎました。日本からも大勢の方が救援隊で行って いますが、一刻も早く救出されることを願いたいと思います。
 20日(日)は、茅野ロータリークラブの30周年の記念式典があり、私と古屋幹事で参加しました。他に当クラブから、三井パスト ガバナーと安川パストガバナーも参加されました。
 茅野RCは現在51名が在籍され、会員の平均年齢は60歳をちょうど超えたところだそうで、当クラブの平均年齢よりも3歳位若いか と思います。
 式典は会員とご婦人方にゲストを加えて100名程が参加しました。ご婦人方はほとんどの方が着物を着ておりました。姉妹提携クラブ は、韓国の釜山の長山(ジャンサン)RCから女性が3人みえていました。ジャンサンは女性だけのクラブだそうです。華やかな民族衣装 のチマチョゴリを着ておりました。記念事業は、茅野駅前のベルビア3階の「CHUKOらんどチノチノ」で、中・高生の居場所を作ろう とのことで、ダンスをしたり軽音楽をやったりお茶を飲んだり勉強をしたりなどの、施設への援助がメインでした。他に原村の学童保育へ の援助(諏訪では原村の学童保育が一番古いとのこと)、米山奨学会への寄付などでした。華やかな雰囲気の中で立派な式典と祝賀会でし た。
 22日(火)は、中州小学校の読書授業の参観に行ってきました。細野教育長さん、中島さん、高橋さんにご尽力をいただきまして、 55周年の記念図書を贈り、その後読書に関する授業が充実できているそうです。
 当クラブから7名の会員が参加しました。子供たちの読書活動の状況は、小学校では週1回図書館利用の時間があり、小・中学校ともに 毎朝15分の朝読書を行っているそうです。そして読書週間や旬間を設けて、読書活動の推進を図っているそうです。授業参観は3年生の 2つのクラスでのグループ読書でした。4から5人のグループで同じ本(短いもの)を読み、簡単な感想を発表し合うというものでした。 中州小には8名ほどのボランティアがいて、当日は3名の方がサポートしていました。素晴らしい授業に感心させられました。グループ読 書の薄い本には「諏訪湖ライオンズクラブ寄贈」の印が押してありました。当クラブの50周年記念事業での図書寄贈から読書活動の気運 が高まってきていると感じさせられました。
 毎年は難しいですが、機会があれば継続することが必要だと感じさせられました。


幹事報告 古屋了幹事
先日茅野の30周年に、折井会長、三井・安川パストガバナーと同席させていただきました。席次表 の名前を間違えられましたが、お詫びのされかたが、大変に心がこもっておりまして、何か茅野のファンになった気分でありました。
秦野クラブの方が先日3名みえていただきまして、お礼の電話を頂きました。
例会が終わった後、太田先輩方と一緒にお話しさせていただく中で、「当日は韓国のRCとの調印式があったりするので、立食パーティー でありますが、諏訪の皆さんにも大勢来ていただきたい」とのご案内がありましたのでまた計画させていただきます。八幡さんと一緒に計 画させていただきます。4月23日ですので、よろしくお願いします。
3月6日のIMですが、最終的に三井さんの「硯の水を注ぐ水滴」と、細川さんのムネヒデさん(お 兄さん)の作品になりました。ご協力いただきますがよろしくお願いします。
当日の行き方ですが、12時に「ぬのはん」に集まっていただく予定ですが、個別に調整させていただきますのでよろしくお願いします。
書き損じハガキですが、204枚集まりました。ご協力ありがとうございました。
3月18日は法光寺さんの移動例会があります。

ロータリー財団委員会寄付報告
藤森貞雄会員へのマルチプル・ポール・ハリス・フェロー・ピンの贈呈。

次年度役員報告 河西正一エレクト
会長から幹事までは前回発表しましたが、配布しました役員名簿に各委員長・副委員長・委員さんの 名前を入れてありますので、皆様ご協力をよろしくお願いいたします。
また、次年度C.L.P研究会を継続するかは、森会員から話がありましたが、現在のところ検討中です。

創立55周年記念事業報告 中島伸一実行委員長
日程の関係から河西年度の事業になりますが、会長と幹事と打ち合わせの結果、役員を決めさせてい ただきました。55周年の事業は全会員さんのご協力が無くてはできないのでよろしくお願いいたします。
顧問には三井さん・安川さん両パストガバナー、副実行委員長には増澤さんと山崎さんにお願いしてあります。増澤さんには記念事業を 担当していただき、山崎さんには記念式典・祝宴を担当していただきます。それ以外の役員さんは掲載のとおりですのでよろしくご協力を お願いいたします。なお全員名前が載っていません。特に会長経験者は載っていませんが、ぜひ各委員長からご援助要請がありましたら、 会長経験者や先輩の皆さんはよろしくお願いいたします。
スケジュールは7月からの年度になりますが、委員会等も7月前から開催することになるため、事務局を通して連絡をさせていただきます。

クラブ協議会・上半期会計報告  宮下克彦会計
 2010〜2011年度の諏訪リータリークラブ半期会計報告をさせていただきます。
 期の途中ですので今回は監査を受けておりません。概略だけ報告させていただきます。
 (半期会計報告書のとおりで承認)

卓話 宮下克彦会員

 最近、興味をもっている人がおりまして、その人についてお話したいと思います。
 その人は夏目漱石です。最近休みに漱石に関する本を読んだり、漱石のゆかりの場所に行ったりすることもあります。先日東京の雑司が 谷霊園というところに行ってきました。新宿から電車で15分程の雑司が谷駅で降りまして、10分程坂道を行きますと、住宅地の中に大 きな霊園があります。そこはかつて徳川将軍の鷹狩りに使う鷹の飼育場所として使われていたそうですが、明治7年に共同埋葬地となりま した。今は大きな霊園です。そこには多くの著名人の墓があります。永井荷風・小泉八雲・金田一京助・泉鏡花・竹久夢二・中濱(ジョン) 万次郎・サトーハチロー・島村抱月・その他にも多くの人の墓があります。
 その中で一際目立つ大きな墓があります。夏目漱石の墓です。夏目家の墓には2つの石 塔があり、大きな方には漱石と妻の鏡子、そして夭折の末っ子ひな子が眠っています。もう1つは漱石の孫で漫画家の房太郎氏が建ててお り、漱石の長男である純一氏他が葬られております。そして大きな石塔は、良く見ますと安楽椅子の形をしています。漱石の一生は苦しみ の連続だっただけに、この椅子に座って安らかに眠ってほしいという、遺族や弟子たちの祈りがあったようです。因みによく漱石のライバ ルとされる森鴎外の墓は、三鷹の禅林寺というところにあり、その向かい側が太宰治の墓だそうです。鴎外の墓には戒名もなく、「森林太 郎の墓」と本名だけが記されている小さなものだそうです。漱石と鴎外はよく対照的な二人と言われ比較されますが、お墓は漱石の方が立 派のようです。
写真
宮下会員による卓話
 私が霊園に行きましたのは寒い土曜日でしたが、20分位のうちに男子学生二人組、アベック一組、10人位の旅行ツアーらしき団体が やってきまして、未だに漱石の人気があることを感じました。この墓地は小説「こころ」にも登場します。何故夏目漱石なのか、なぜこの 霊園に行ったかといいますと、以前NHKテレビで「坂の上の雲」が放映され正岡子規と漱石が一緒に学ぶ場面を見ました。なぜがその時 漱石が印象に残り、久しぶりに「坊っちゃん」でも読んでみよう、そんな気になったわけです。かなり昔に読んだ「坊っちゃん」をもう一 度読み直しましたところ、今までと違った新しい感動がありました。それから漱石に関する書籍を読んだり、漱石ゆかりの場所を回り始め たわけです。「坊っちゃん」については後で触れさせていただきます。
写真
夏目漱石
出展:Wikipedia
 またちょうど今、地下鉄東京メトロで「文豪たちの東京めぐり」というイベントが今月末まで行われていまして、今月末まで漱石がテー マとなっております。例の肘をついて頭を支えた漱石の写真入りのポスターが地下鉄駅などに貼られています。そこで漱石に因んだスポッ トを回って見ようということになり、まず雑司が谷霊園に行ったわけです。
 漱石のプロフィールを紹介します。慶応3年(1867年)2月9日、現在の新宿区喜久井町1番地に生まれました。まさに幕末の混乱 期にあたります。生まれた年の11月には徳川慶喜が大政を奉還し、翌年戊辰戦争が勃発します。庚申(かのえさる)の日の申の刻に生ま れた漱石は、一つ間違えば大泥棒になる、ただし名前に「金」の字か、金偏の字を入れれば難を逃れるという迷信がありまして、金之助と 名づけられました。漱石の幼年時代は家庭的に恵まれず、本人も「俺は6人兄弟の末っ子で両親から余計者、要らぬ子として扱われた」と 言っています。生まれてすぐ里子に出されまして、すぐ戻されましたが、今度は塩原家に養子に出されました。この後塩原籍のまま夏目家 に戻り、明治21年(1888年)21歳で夏目家にようやく復籍しています。
 広い分野に興味をもっていましたが、生活のためには大嫌いだった英語が重要だと考えるようになり、第一高等中学校本科英文科に進学 しています。そこで正岡子規と出会います。二人の共通の趣味が寄席でございまして、そこに通いつめながら親交を深めていきます。そし て22年に初めて「漱石」という号で、正岡子規の詩集に登場します。夏目漱石の誕生です。夏休みに漱石が松山の子規を訪ねます。そこ で高浜虚子が初めて漱石と出会います。後から虚子が漱石と子規の印象を語っています。「何事も放胆であるように見える子規と反対に極 めてつつましやかに紳士的な態度をとっている漱石」と評価しています。
 大学卒業後には東京高等師範学校・松山の中学校・熊本の旧制高等学校などに英語教師として勤めます。松山の中学ではその風貌から 「鬼瓦」というあだ名がつけられました。33年(1900年)から英文学研究のためイギリスに留学しますが、ひどい神経衰弱になりま す。あの森鴎外はドイツに派遣され、勉学と遊びを両立できるタイプで外国人女性にもてたようです。一方漱石はもてない真面目な人間だ ったそうです。ロンドンでの生活費と本の値段の高さに苦しみながら、下宿に閉じこもっていたようです。帰国後も病気に悩みますが、 東大などの講師になります。経済的に苦しく教壇に立たざるを得なかったのです。この頃は駒込の千駄木町というところに住んでいました。
この時の家には以前に森鴎外も住んでいました。漱石はここで突如創作意欲が沸き、次々に作品を発表します。ここは「漱石文学発祥の地」 と言われまして、「吾輩は猫である」「倫敦塔」「猫」「坊っちゃん」「草枕」などを書き上げます。この千駄木にも行ってみましたが、 東大のそば、現在は日本医科大学関連の建物が立っています。当時漱石の住んでいた家は、現在犬山市の明治村に移設されていまして、こ の千駄木の家の後には「夏目漱石旧居跡」という石の案内板が残っているだけですが、この文字は川端康成が書いたものです。そして案内 板を見て帰ろうとしましたら、案内板のそばに塀がありまして、その上に石でできた今にも動き出しそうな猫が一匹乗っていました。 漱石はいませんがその代わりに漱石の愛した猫がここにいますよということでしょうか。漱石の住んだ家がなかったのは残念でしたが、こ の石の猫に何とも漱石の作品に似たユーモアを感じました。
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漱石旧居跡
 漱石に転機が訪れたのは、40歳の時、明治40年(1907年)でした。大学教授になるか、それとも辞めて朝日新聞社の専属作家に なるか悩みます。悩んだ末に家族のための安定収入を条件に朝日新聞社に入社します。新聞社の給料は月給200円でした。講師の時の給 料は、第一高等学校が年棒700円、東大が年棒800円でしたので、それに比べても当時とすれば破格の待遇でした。しかも「大学を辞 めた翌日から急に背中が軽くなり、肺臓に未曾有の多量な空気が入ってきた」とほっとしたという本音を漏らしています。
 朝日新聞社入社後は、早稲田南町の「漱石山房」といわれる家に移ります。引越しの多かった漱石ですが、ここは友人と連れ立って散歩 がてらに見つけたところで、奇しくも生まれた場所とは目と鼻の先でした。ここで亡くなるまでの9年間を過ごします。引越し後は本格的 な作家活動を開始し「三四郎」「それから」「こころ」「道草」などを書き、「明暗」執筆途中にあって胃潰瘍が悪化し、1916年49 歳という若さで亡くなりました。
 漱石山房跡は東西線早稲田駅から10分程の喜久井町にあります。途中漱石の父親が命名した「夏目坂」の入り口を通っていきます。今 は新宿区指定史跡の漱石公園となっています。昭和20年の空襲で山房は全焼し、現在はその他の一部が公園となり小さな記念館、漱石が くつろいだベランダ回廊を復元した建物があります。また漱石の胸像や猫塚、そして「則天去私」と書かれた漱石の筆跡の碑があります。 「則天去私」は「小さな自分を去って大きな天に身をゆだねる」という意味です。漱石は俳句を詠んで精神の疲れを癒したようですが、苦 しいときの句に「菫(すみれ)程な小さき人に生まれたし」というのがあります。この気持ちが晩年の「則天去私」という理想につながっ ていると思います。この山房記念館には漱石に関するビデオが流れていて自由に見ることができます。その時の管理人によりますとこの記 念館は近いうちに建て替えの計画があります。
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漱石が愛した猫
漱石旧居跡に置かれた猫の石像
 ここで漱石はどんな人物であったのかもう少し紹介いたします。身長158.8cm、体重53.3kg(23歳の時)、家族構成は妻 鏡子と2男、5女(筆子・恒子・栄子・愛子・純一・伸六・ひな子)ひな子は夭折。趣味は器械体操(大学予備門時代)・落語・講談・水 彩画・謡い。また英語・漢字・和文に習熟し、漢詩や俳句にも才能を発揮しました。俳句においては子規も高い評価をしております。ペッ トは黒い猫(吾輩は猫であるのモデルであり名はありません)、犬(ヘクトー)、文鳥です。朝日新聞社時代は、朝9時から10時過ぎに 起き、朝食は火鉢で焼いたパンに砂糖をつけて食べました。それと紅茶です。千駄木時代はジャムを舐め過ぎて医者に禁じられたこともあ りました。酒は飲めませんでしたが大の甘党。夕食のメインディッシュは一日おきに魚と肉料理。特に牛鍋は大好物。ビスケットを食べす ぎたこともありました。
 亡くなる前の最後の望みは「何か食べたい」でした。与えられた一匙のぶどう酒に「うまい」という一言を残して亡くなりました。臨終 の数時間前の写真が残っていますが、顔がだいぶ痩せこけています。病歴として神経衰弱・胃潰瘍・痔・糖尿病・肺結核など、一生が病気 との闘いでした。子供にとってはやさしい父親でありましたが、一旦神経衰弱に陥ると「突然怒る恐い父でした」と、子供たちの記憶にあ ります。
 漱石の交友関係は広く、家には訪問者が引っ切り無しで、そのため毎週木曜日午後3時以降を面会日としました。後に木曜会と呼ばれる ようになります。そこには高浜虚子・芥川龍之介・久米正雄・寺田寅彦・内田百閧ルか多数の著名人が集まってきました。その場面を想像 するだけでワクワクしてきます。木曜会のメンバーにもう一人忘れてはいけない岩波茂雄がいます。ご存知の通り諏訪出身の岩波書店の創 業者です。大正2年(1913年)に古本業の岩波書店を開きます。古書店から出発し、漱石の知恵を得て、1914年には「こころ」を 出版。これは自費出版でしたが岩波書店の処女作と位置付けられます。漱石没後は安倍能成(よししげ)らと「漱石全集」を刊行しました。 また「芥川龍之介全集」の出版も手掛けています。
 漱石は10年間の職業作家生活でした。神経衰弱を癒すために楽しい作品を書いてみたものの、やはり小説では遊べない性格の人でした。 小説を書くことでドンドン追い詰めていきました。
 有名な作品がいくつかありますが、最後に代表的な作品である「坊っちゃん」についてお話します。実はこの作品は徳川幕府が瓦解した 戊辰戦争、そして日露戦争までの明治時代を、登場人物に託して鋭い社会批判をおこなっています。 主な登場人物は、坊っちゃん(幕府が崩壊し没落した旗本の次男の設定)、うらなり先生(元松山藩士の子息、英語教師、幕末において 松山藩は長州征伐に参加し官軍から朝敵とされた。藩は疲労しつくし正に「うらなり」となった。)、赤シャツ(帝大出身で文部省と直結 していました。維新を牛耳った長州藩を象徴する存在。)、狸(たぬき)(校長、風貌と表裏のある言動から薩摩藩を連想させます。校長 と赤シャツは薩長で藩閥支配をおこない、他の職員は恐れをなして沈黙しています。)、野だいこ(美術教師、江戸っ子、つまり旧幕臣で ありながら赤シャツに追従。)、山嵐(数学教師、会津人。校長に赤シャツの不道徳な行為を批判。会津藩は薩長から危険視されていた。 まさに校長の狸、赤シャツによる明治の薩長閥政府に対抗するのが、元旗本の坊ちゃんと会津の山嵐で、戊辰戦争そのものの構図になりま す。また赤シャツはマドンナを手に入れるため、その許婚だった「うらなり先生」を左遷しようとしますが、元旗本の坊っちゃんと会津の 山嵐はそれを阻止しようとします。ところがうらなり先生は受け入れてしまいます。理由は給料が上がるからです。つまり財政の苦しかっ た明治維新の松山藩の様子を表しています。松山中学の生徒が宿直の坊っちゃんの床にバッタを押し込み、挙句に二階で待ち伏せして大怪 我をさせます。日清・日露戦争の奇襲作戦のようないたずらをした学生たちを捕まえましたが、学生たちはシラを切ります。これは日露戦 争に至るまでの明治政府の外交と国民教育の様子を描いています。そして松山を去る前に坊っちゃんと山嵐は旅館に立てこもり、芸者と泊 まりにくる赤シャツと野だいこを待ち伏せます。これは彰義隊と会津藩の残党が長州藩に率いられた官軍を迎え撃つ構図と同じです。
 漱石は坊っちゃんを10日で書き上げましたが、これは明治政府への憤りであり、藩閥政治への挑戦状であったようです。今もし漱石が 生きていたら、世の中をどのように感じ、それをどのように表現したか、興味が湧いてきます。


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