riemblem International District 2600 諏訪ロータリークラブ週報

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2626回例会 2011.02.04(金)  No.2517


司 会 藤森省作SAA
ゲストビジター 下諏訪観光協会観光ガイド 蟹江文吉先生
結婚記念日 藤森郁男君、玉本広人君
誕生日 藤原吉彦君、三澤清司君、宮坂直孝君、小飼康平君、細川昭八君、
藤森省作君、宮島康君、八幡一成君
出席報告 本日72.34% 15名欠席 前回訂正91.84% 5名欠席
ラッキーナンバー No.2 藤森省作君

ニコニコボックス
 折井俊美君、古屋了君
  蟹江先生をお迎えして。
 小口武男君
  藤森貞雄さんより写真を頂いて。
 山崎晃君
  お先に失礼します。
 岩波寿亮君、五味和人君、伴在賢時郎君、関口良一君
  諏訪湖の御神渡りは残念ながら見られませんでしたが、 立春を迎え暖かくなりました。
  外に出て健康的に躍動しましょう。例会への出席よろしくお願いします。
 藤森省作君
  ラッキーナンバーに当って。

会長告知 折井俊美会長

 2月に入りましてだいぶ暖かくなってまいりました。3月中旬並みの気候とのことです。
 「最近植物の話をしなくなったじゃないか、どうしたんだい」と言われましたので、今日は植物の現在の様子をお話します。

【植物あれこれNo.14】
 殆ど冬の間は、落葉樹を含めて植物は休眠状態にあります。常緑樹も太陽の光が斜めになって、日光が弱くなって成長が鈍っています。 光合成は基本的には温度と関係がなく、10度でも30度でも日光さえあれば光合成をします。しかし、氷点下の温度では葉っぱの大きい 木は、葉が丸まったり鈍ったりしていてほとんど成長はしません。反面夏は成長し年輪ができます。年輪ができると木質部は強度を増し、 大きな枝や葉を支えることができます。その木材を建築用に使い強靭な家を作ることができます。ですから冬が全く意味が無い訳ではない と思います。
 植物は春に向けて様々な準備を始めています。今現在も根からは盛んに水を揚げていまして、木質部に蓄えたデンプンを酵素の力で糖に 変え、新芽が伸びようとする所に養分を盛んに送り始めています。特にモミジの仲間は非常に水揚げが良く1月の寒い時期から水を揚げて います。カナダ国旗にデザインされているシュガーメイプル(砂糖カエデ)は、2月から樹液の採取が始まりメイプルシロップとして日本 でも有名です。昔アメリカにフランス人やアメリカ人が住む前に、アメリカインディアンがいたわけですが、その人達がリスがメイプルの 木をかじるのを見て舐めたところ非常に甘かった。樹液の内、水が97.5%ですから2.5%の糖度があります。インディアンはそれを 蒸留し糖を摂っていました。17世紀頃からカナダのフランス人がインディアンと交流して、シュガーメイプルのメイプルシロップを作り 始めました。
 日本にも伝わり北海道で試みましたが続いていません。群馬県の一部で生産している所があります。他にも白樺の仲間で甘い樹液が取れ ますが、ロシアのシベリアではカンバの木から糖を取っているそうです。
写真
砂糖カエデとカナダ国旗
出展:Wikipedia
 今の時期になるとモクレンやコブシの蕾が大きくなっています。桜の花弁もだんだん大きくなっています。植物の見分けをするには樹形 や幹の肌、葉の形や花などでしますが、冬は芽の形や葉痕(ヨウコン)の形で見分けます。葉痕は特に面白く特徴のある形をしています。 トチはハート形、クルミは猿の顔の形をしています。葉の付いていない落葉樹は素晴らしい樹形を見せています。
 ぜひ日常生活を離れて皆さんも観察され、自然の素晴らしさを堪能していただきたいと思います。


幹事報告 古屋了幹事
先週の柳澤先生に続きまして今日は蟹江先生をお招きしました。下諏訪文化人特集の様ですがどうぞ よろしくお願いします。
ロータリー手帳の注文がきていますので回覧します。
IMの出欠表も回覧しています。合わせて趣味の他薦自薦もお願いします。
来週11日は旗日でお休みです。18日はC.L.P例会です。
本日例会終了後、理事会を開催します。

委員会報告
プログラム委員会 平林明委員長
本日は蟹江先生の卓話、11日は休日、18日はC.L.P、25日は上半期会計報告および宮下支店長 の卓話です。

卓話
◇講師紹介 三井章義会員
 蟹江文吉さんは、昭和8年生まれで細川会員と同じ年ですがお若くて元気です。
 毎月プラザという雑誌が無料で家庭に配られてきますが、蟹江さんはその中の諏訪の史話を毎号出筆されています。拝見させていただき ますと、非常に幅が広くてしかも奥深く立派な研究をされていると感心しています。
 高校卒業後にオリンパスにお勤めになられ、定年退職してから活動を始められました。蟹江さんのお話は必ず現地へ行って取材をし、そ の地域の方の話を聞いて深く研究をされています。学校の先生が郷土史を研究していることは多いのですが、そういう経歴とまた違ったと ころが素晴らしい所だと思います。
 今日は研究の成果を発表していただければと思います。

◇下諏訪観光協会観光ガイド 蟹江文吉先生 「諏訪大社上社と下社の違い」
 三井さんから私の紹介に当たらないような話をたくさんしていただきましたが、博士でも何でもあり ません。三井さんとの日頃のお付き合いからお受けしました。
 先ほど昭和8年とのお話が出ましたが、だいぶ耳が遠くなりました。天皇さんも遠いようです。年を取ってしまいました。今日は三井さ んと相談してどんな話がいいかということで、諏訪は独特のものがたくさん詰まっていますが、その中で「諏訪大社の上社と下社の違い」 を中心に用意しました。
写真
蟹江先生による卓話
 諏訪神社を書いたものでは、古事記と日本書紀と長野日報さんが出した諏訪大明神絵詞があります。3つの書物を比較しますと、古事記 には、出雲の国譲りで大和朝廷が国譲りを迫り、その使者でタケミカヅチなどの神様が出雲に行って、大国主と長男には大和朝廷の支配下 に入りなさいと迫り納得を得ますが、次男だけは納得しませんでした。そこで戦になり、タケミナカタは戦をして負けて、逃げて諏訪に来 ました。諏訪の中で前からいた支配者に、ここから出ないからと降参をして諏訪に定着したと書いてあります。ところが日本書紀には一行 も書いてありません。また、大明神絵詞には、出雲の戦の後に諏訪に来て定着したと書いてあります。
 要するに戦をして負けたことと、諏訪から出ないと降参したしたことは一切無い、これが上社の本当の姿でありこれはどうしようも無い、 ここがまず原点です。
 上社はいったいどういう形で動いていったかというと、上社は縄文の文化を背景にし、下社は弥生の文化を背景にしています。上社は縄 文の文化ですから今も残っている姿でいきますと、元旦に御手洗川で眠っている蛙を捕獲してお供えをして神事を行っています。今は残っ ていませんが、古くは御射山で7月頃鹿を3頭捕獲していました。よく75頭と言われますが、3頭だけであり後72頭は全国から寄進を 受けて神事をやります。上社は鹿を捕獲することを当然のように行っていました。
 タケミナカタ以前に、諏訪にあった信仰はミシャクジと言っており、あまり聞き慣れないかもしれません。ミシャクジの信仰とタケミナ カタの信仰がそこで戦をして、タケミナカタが勝ったために、その一族は前宮の地に定着します。お宮を運営する資金のために、信者から 物を手に入れる以外に考え出されたのが御射山の神事でありました。
 御射山の神事は4つあり、押立御狩(八ツ手)、御作田御狩(大塩)、御射山御狩、秋穂御狩です。押立御狩は5月2日から4日まで山 で狩をし、八ツ手にあるお宮で祈祷をし里に戻って来ると5日になります。一般的には5日から百姓の田起こしが始まる仕組みになってい ます。2つ目の御作田御狩は、大塩で6月27日から29日まで行い、里に下りてきて30日で、今でも藤島で田植えををしています。 最終の秋穂御狩は、9月27日から29日に室内で祈祷をした後、里に下りてきて30日に収穫祭となっています。従って御射山という 神事は2つの事が合体しています。縄文文化の鹿を捕獲することと、信者に農業をさせるための日程を定めることをしていました。
 もう一つ、山にある御射山の神社に祈祷させることばかりでなく、実際に信者の近くに行って農作業の安全を見守ってやるから、秋には 必ず収穫されたものを寄付しなさいという廻湛(マワリタタエ)の神事があります。今の酉の祭と同じように、4月の最初の酉の日に前宮 をスタートして茅野・原・富士見を廻ってくる、もう一組は諏訪湖の周りを廻ってくる、もう一組は伊那を廻ってきます。上社のナンバー 1は大祝ですので、その集団に大祝の代理の資格を与えて馬に乗って廻らせました。悲しい話では3方向を廻った大祝の代理は前宮に帰る と殺されてしまいますが、江戸の途中からは廃れていきました。春にそれぞれの所へ行って農業の豊作の祈祷し、秋
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上社本宮
出展:諏訪大社HP
には収穫物の寄付を依頼して廻っていました。11月21日に寄付されたものを集めて神事を行い、上社は運営していました。これが本当 の姿です。
 結論的に、上社は御射山の神事と廻湛の神事の、2つを合わせて信者から寄付を集めて運営をしていました。上社が諏訪に定着したのは 西暦400年〜500年頃、その時期に出雲にいたタケミナカタがいなくなって、大和朝廷がその一族がどこに行ったか探すわけですが、 諏訪にいることが分かって、朝廷はナガタという一族を派遣しますが、その者達は信州全体の支配者でもありました。上社にしてみると自 分が定着した場所のすぐ近くに、朝廷の役人が入って来たので警戒をしなければならないし、その土地の百姓から年貢を取り立てる権利は ありません。ところが大和朝廷の役人として入ってきた下社は、年貢を取り立てる権利を当然持っているため、下社は上社のやったような、 御射山御狩や廻湛などの神事を展開する必要が全くありません。それが上社と下社の違いであります。当然の事ながら、上社は手をこまね いている訳ではありません。1年に100回程の神事がある訳ですが、それを合理化していき、出費を減らしていきます。お宮の中に合理 化した余剰のお金で兵隊を雇います。宮兵を雇うということは、間違いなく下社の支配者を牽制する事ですが、その時の朝廷の者を武力で ねじ伏せることは不可能です。どうするかというと、上社が大水や火災の時に、下社から暴走して入って来る時を見計らって(隙を狙って) 、下社の者を全滅させます。ブンメイの政変といい1518年に下社が滅びることになります。その後上社は諏訪郡全体の支配者になりま すが、1542年に諏訪頼重が武田軍に滅ぼされるため、18年から42年までが上社が諏訪を支配する期間となります。武田が入って来 ましたが、武田は上社と下社を等距離で見ていたいたため、上社は自分達の思うように物事ができなくて苦しみます。間違いなく上社と下 社は、朝廷の支配者の役人として入って来た者と、以前に出雲の支配下では嫌だといって逃げて来た者とが、戦をするということが過去の 姿でありました。
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下社秋宮
出展:諏訪大社HP
 上社と下社の違いをもう一つ別の面から見てみますと、奈良の都は捨てられた、捨てられたというのは奈良の都があるのに、次に京都に 都を造るということです。都を造るということは膨大なお金や労力が必要です。奈良の都の周りには巨大なお寺がたくさんあり、そのお寺 は天皇の命令で支配されていました。そのお寺が上手く立ち回ってくれない(従ってくれない)ので、天皇は奈良の都とはどこかで決別し ようと考えますが、その当時の天皇は40代以下であり、新しい都を造って平城京を捨てようと思っても、実際にスケジュール通り事が動 かなく皆諦めていましたが、たまたま桓武天皇が69歳まで生きて、桓武天皇は平城京を捨てる決心をしました。
 桓武天皇は膨大なお金が必要なため、坂上田村麻呂に征夷大将軍の肩書きを与えて江戸を征伐します。坂上は土地勘が無いし敵地に乗り 込んで行くため連戦連敗を帰しましたが、ある時諏訪神社に寄進して戦勝祈願をしたら勝利することができました。その結果、桓武天皇は 諏訪神社にご褒美をあげることになります。今に残る御柱の前の姿になりますが、式年造営大祭を許可しました。その許可は801年の 巳年でありますが、804年の申年から式年造営大祭が大和朝廷の仕組みで始まります。 平安時代になると、都を守るために寅と申の方向にお寺を造る姿に変わってきます。実際に京都の寅の方向に延暦寺ができます。要するに 鬼門には必ず大事な守り神を据える信仰が入ってきました。それと同じで式年造営大祭を許可したのが801年で、始まったのは804年 となった訳です。
 いったいどちらのお宮に戦勝祈願して許可を得たのか。大明神絵詞には上社と書いてあります。それまで従わなかった上社に許可したの で今でも問題が残っています。今の姿で言うと、例えば神宮寺が上社にも下社にもありましたが、上社は1297年から下社は700年か らありました。上社は山本郷(村)に神宮寺ができたために神宮寺村になります。そして普賢堂という本堂ができます。そのお堂に御射山 御狩で捕獲した3頭の鹿を供えて神事をします。その鹿は翌年の前宮で、神官と信者とで頭以外の部分を料理して食べる習わしが今も残っ ています。大工さんは良くお分かりですが、諏訪湖の周りの土地では、北東に入り口を作らないという信仰があります。要するに鬼門です から出入りをしません。ところが諏訪湖の周り以外の土地では、鬼門の信仰をあまり重要視していません。それは上社下社の今の氏子さん の範囲にもつながっています。要するに上社下社の信仰の基本は、平安の都ができる頃から確実に大きく食い違ってきています。
 上社はお宮の運営費を捻出するために御射山の神事を企てたましたが、江戸時代になると、家光の時代に御朱印という形で、上社100 0石、下社500石をいただきますから運営費が困らなくなりました。その後明治5年には上社と下社が一緒になります。強制的でした。 勿論上社も下社も、元々違うんだと大反対をします。元を正せば出雲の国譲りの延長線が、ずっと昔から続いていたんだと私は考えていま す。
 三井さんのご紹介にもありましたが、その場その場で現場に行って、お話を聞いたり見たりすると良くわかります。諏訪にいて諏訪の事 をやっていても全く分かりません。一例では松本の人達や上田や佐久や甲州の方が、諏訪神社や諏訪の人をどう見ているかを、資料から追 っていきますと、そういうことがはっきりと分かってきます。


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