諏訪の電気事情について紹介します。
明治11年3月日本で初めて東京虎ノ門の工部大学校(現在の東大工学部)で電気の灯がともりました。今から131年前です。
明治12年エジソンが白熱電球を完成。明治16年日本初の電灯会社、東京電灯が設立されました。明治22年中部電力の前身の名古屋
電灯が一般供給を開始。明治20年代、全国各地で電灯会社が設立されました。燈火はもともと種油でありましたが江戸時代に石油が渡来、
諏訪でも石油を使用するようになりました。明治18、9年頃から全くの石油時代となり和田峠を越えて運ばれてくる石油の量は繭に次ぐ
ものとなりました。
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明治20年代、白熱灯の実用化とともに諏訪でも水力発電所建設機運が高まりました。
明治29年8月松本電灯、同年10月1日長野電灯、5日諏訪電灯が発足。諏訪電気鰍ヘ茅野出身の東京日日新聞記者の高木守三郎氏が
電気事業こそ時代を開くものと情熱を燃やし誕生。水力発電所の決め手は安定した水量で、東俣川が年間1800mmと諏訪湖周辺で
自然流量が最も安定していることを突き止めました。明治27年、有志の人々が水力発電所の建設を計画。明治29年8月、下諏訪町の
承認を得て高木守三郎他16名が発起人となって上諏訪町、下諏訪町、長地村、平野村を供給区域として電灯電力供給事業の経営を出願、
10月に逓信大臣の許可を得ました。明治30年1月、諏訪電気鰍フ発起人会を申請して農商務大臣の許可を得、同年6月長野県知事から
河水引用の発電所設置を許可され11月諏訪電気鰍ェ発足しました。初代社長は辻新次、資本金35千円。地元の方々も多く発起人となっ
ています。明治33年10月、落合発電所60kw(50Hz)の工事が竣工。今から109年前。6年の歳月をかけ、
総工費は41,294円でした。この頃の灯数は下諏訪292灯、上諏訪317灯、平野210灯、合計819灯です。
落合発電所は明治36年120kw、同43年200kwと増強され現在も使われています。
その他に諏訪電気鰍ェ建設した発電所は明治42年蝶ヶ沢、大正5年唐沢(和田村)、同7年和田、同8年島々(安曇村)、同10年烏川
(穂高町)、同11年水沢(和田村)、同13年塩沢(東部町)、同15年青原(和田村)、昭和4年福沢(茅野市)、同5年米沢(茅野
市)の合計13発電所です。
次に砥川発電所と伊那電車軌道会社についてです。伊那電車軌道会社は本社を東京に置き、支社を赤穂町(現駒ヶ根市)、営業所を
飯田町(現飯田市)と伊那町(現伊那市)に置きました。明治40年、辰野側から工事に着手し、1区間が出来ると電車を開通するとういう
方法で逐次工事を進めました。運転用電力は諏訪電気の落合発電所から受電して明治42年12月辰野〜伊那松島間の8.6kmの営業を
開始し、同45年5月には伊那町まで南下。大正11年下伊那の伊那大島まで、同12年飯田町までの全区間66.4kmが開通しました。
着工以来16年を要した大工事でした。大正12年、自社電源開発の必要性が生じたため、砥川発電所は伊那電車軌道会社により建設
されました。
諏訪地方の需要家数の推移は明治40年の835から13年後には25,692と約30倍に増加しました。明治40年諏訪電気は供給
力120kw、電線路こう長26km、電灯数2,961、収入は19,994円でした。
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当時の電灯についてのエピソードを紹介します。
「電灯の申込みをするとやがて背に赤い電気会社のマークのついた法被を着た工夫達が幾人がやってきたが、つけるはお勝手の間へただ
1灯だけ。天井から下げられたそのコードの長さは畳の上一尺どまり、もし持つ手がはずれ下に落ちても床に当って傘や電球がこわれない
ためだと言った。」
「黒く煤けた天井につけられた真っ白い硝子、下げられた茶色のコード、白乳色の電灯傘、硝子の電球と誠に辺りに馴染まなかったが、
またいかにも新しい息吹のやって来た思いでもあった。」
「吊るした真下が油壺で暗い、これまでのランプに代わった電灯の下へ、みんなが揃ったその晩の夕食は誠に楽しかった。」 |
「電灯は夕食を済ませ母が流しでその後片付けのすっかり済んだところで、やっと居間へ移された。それが大変待ち遠しかったが、
そのコードの長さでは、こちらの居間の中央までは届かなかったので、境の鴨居に吊るしておかなくてはならず、誠に物足りなかった。
私はお勝手の間に自分の机を運んだ。そしてやっぱり暫くはなお電灯とランプの併用で私達ランプ掃除の役はまだ続いた。」等です。
大正8年の諏訪電気は供給力3,555kw、電灯数90,947。工業の急速な発展は動力需要の拡大をもたらしました。県内最大の
工業を製糸業であり、動力源として蒸気力と電力が拮抗するほどになりました。
諏訪電気は大正10年に湯川電気を合併した後も着実な発展を遂げ、昭和12年、諏訪電気と安曇電気が合併し信州電気が発足。
信州電気は昭和13年に黒沢電気工業を買収。合併後の資本金は1,721万円。昭和14年〜20年は戦時国家管理下の電気事業として
閣議は「電力国策要綱」を決定。発送電管理のため既存の水力発電設備その他の主要電力設備はこれを日本発送電鰍ノ帰属し、配電管理の
ため全国を9地区に分け各地区内の全配電事業を統合して新たに特殊会社を設立。配電業務を行うと共に、発送電事業との間に緊密なる連携を保つとされました。
昭和16年中部地方に中部配電を設立すべき旨の設立命令書が信州電気を始め中部地方の11事業場に手交されました。
終戦から昭和26年にかけての時期は「電気事業再編成」と呼ばれる電力業の根本的な改変が実行されました。この再編成に関しては
GHQの強権が発動されました。しかし真の主役になったのは元東邦電力会長の松永安左エ門。松永は再編成の最終実行案である9ブロッ
ク案を作成。この案は昭和3年に松永自身が発表した「電力統制私見」と基本的に同じでありました。昭和26年電力国家管理を廃止、
地域別民営9社による発送電一貫経営の電力会社が発足しました。
長野県には大きな電源がないため、電力供給は太平洋側からの一方通行という状況。現在、長野県の電気の80%は遠方から南信を経由
して送られています。上越火力発電所、2012年7月から運転開始を計画。上越市直江津港にLNGを燃料とした発電所として建設中。
全体の1/4まで工事は進んでいます。中電にとって初の営業区域外の火力発電所で長野県内の80%を賄えます。
国内最大級のガスタンク3基も建設中でありLNGはカタールやサハリンUからも調達予定です。送電線ルートは豪雪地帯を通過するのが
特徴で現場では厳しい自然環境を乗り越え工事が着々と進められています。
◇折井俊美会員
今月は家族月間なので家族についてお話しします。
家族は妻と息子3人。長男と一緒に暮らしています。三男はアパート暮らし、次男は東京。妻の母が96歳で同居しています。
最近、野良猫が来るようになりました。植木屋をやっており庭にはいろいろな木が植えてあります。道路や隣の家に邪魔になるところは
切りますが、それ以外は一切剪定はしていません。夏はうっそうとした森で日陰があり快適で、冬は葉が落ちて日当たりが非常に良く暖か
い環境です。
おばあちゃんは椅子に座って外を眺めたり体操したりが日課。日当たりが良くなり始めた頃、今年の春に生まれたのではないかという
可愛い猫が来るようになり、タマコと名付けました。おばあちゃんは本来動物嫌いですが、タマが来るようになって一緒に日向ぼっこを
していました。家族みんなが可愛がるようになり、ダンボール箱に毛布を敷いて猫の居場所にしてあげました。猫嫌いのおばあちゃんも
「今日は何を食べた?」とか会話し、家族全体が非常に和やかになりました。 |
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「今暫く様子をみて家族にしようか」と話しをしていた在る朝、タマがおらず、変わりに目つきの悪い
トラ猫がダンボールに入っていたので慌てて追い出しましたが、それから毎日トラが来るようになり、母は毎日トラを追い払っていました。
最近、タマが来なくなってしまい、おばあちゃんはとても残念がって、「どこにいるか」と話しをしています。
その後、タマコが家の近くを歩いているのを見かけました。トラ猫や、いろいろな家で追い払われたりして目つきも精悍な野生目になっ
てきていました。大人になることは色々な経験を積んでいくことが必要で、厳しさに打ち勝ったものだけが生き残ります。
それは人間も同じで勝って行かなければなりませんが、今回のタマを通じて、お互い通じ合ったり、優しくなったりという経験が出来た
ことは幸せでした。