小口武男幹事
2500回例会として、今日までの諏訪RCの50年刻みの歩みを紹介し、三井会員・山崎会員・小松会員から諏訪RCの人物について語っていただきます。
◆三井章義会員
私は、諏訪RC13代目のときに太田会員・小飼会員といっしょに入会しました。当時10名の新入会員がいたが現在は3名となった。諏訪RCの当初メンバーは、諏訪中の立派な方が集まった。顔は見えても話しが出来ないようなすごい人物の集まりであった。年度末に21名であり、諏訪RCへは入れないとの伝説が出来た。
特筆することは、初代会長は2年であったが、あとは1年で交代、幹事は3年と言われ初代から3年は松井澄寿氏、次期は藤原正男氏、飯田新治氏、小池富夫氏、小口貴弘氏と複数年の経験者が続いた。三井本人も2年経験した。
私は、諏訪クラブの伝統創りに重要と考える三人の方を紹介します。
寺島清七氏。
RCは地域に根をおろせ!RCだと言って威張るな!各業界の代表の集まりだと言われた。四つのテストについての逸話があります。四つのテストについてどのように考えているかと質問すると、「あなたは、税務署や妻には聞かれたら本当のことを言うか?守らなければならないのではなく、自らの人格形成を行う中で物差しとして自己研鑽するときに使う。」と言い、「友情を育め!」と言われ、腹を割って話せる会員になろうと語った。
松井澄寿氏。
人柄は、真面目でどちらかと言うと冗談も通じないような方。富士見RCを開設する時の逸話がある。設立に向けて、松井・藤原・三井とで富士見に何度も行き、会員を募った。集まったメンバーからは、ライオンズクラブからも誘われているんだと言われた。しかし、富士見RCが出来た後、RCに決めたのは松井さんが居たからだと多くの会員が言っていた。
藤原正男氏。
二代目の幹事。当時は名古屋に属しており、愛知は長野を見下していたが藤原氏は愛知の方から慕われていた。名古屋の人はものを言える状況でないため、藤原さんに言って改善を行なった。ガバナーになる前に会計長を実施する決めになっていたが改善を図ったのも藤原さんです。
諏訪RCを振り返ると、RCの本道を歩いたクラブと思います。本道とは、腹を割って話し合う、職業奉仕をする、RCを信仰する気持ちを維持していると思う。また、機会があれば話します。
◆山崎壯一会員
まずひとりは、増澤会員のお父さんです。私の家の三件隣に住んでおり、私をRC会員に推薦していただき、私は40歳の時に入会しました。当時、青年会議所にも入っていましたが、ほとんど会合にも出られず、朝から晩まで仕事尽く目の日々を送ったので世間の方との接し方が分らなかった。私の入会は、細川会員と亡き遠藤会員と三人で40歳のときに入った。当時のぬのはんの会場は、今の2/3の広さで、4人掛けのテーブルが置かれており、私は入り口に座っていた。私の前に座っている人が増澤さんでありました。私は、妻から増澤さんに推薦して頂いたのでお礼を述べるように言われていました。そこで4回目のときに入り口で増澤さんを探しました。そしたら、テーブルの私の向かいに座っている人が増澤さんであり、挨拶ができました。それ以来、マージャンをやるから、当時は名古屋とかかわりがあったので名古屋に行くから・・と誘って頂いた。私は、RCに入らなければ世間を知らない人で居たと思っている。RCと言えば私は、増澤さんが頭から離れない。
二人目は、寺島清七氏。
こんばか大将の愛称。浜の湯を始めるときのこと。寺島先生から頼みたいことがあると連絡をいただいた。諏訪湖CCのへーちゃんを浜の湯をやるなら採用してくれないか?と言う。そんなきっかけで先生と話す機会が出来、11月17日の誕生日に平林氏に先生を私の家に連れてきてくれ!と頼んだ。人の家にはいかないと言っていた先生は30分で帰ると立ち寄った。が、話題が話題を呼び3時間にも及んだ。それと同時に次男が女子医大に入った。あるとき、先生に旅行に志摩観光ホテルへ行きませんかと誘い、行った。それ以来、先生の家に伺うなどして先生の人柄を知ることができた。
先生は、表面上はこんばか大将だが気配りの利く人だ。先生の所は、正月にいろいろな方が来るので御節を持って行く。正月三が日を過ぎると重箱を洗い、お礼に来る。偉い人と言う人は、細かなところまで気配りが利き、叱る時は叱り、引き揚げる時は引き揚げる。私は、RCで第一等の人物に会うことが出来た。
私は、RCに入り皆勤を続けている。また、RCに入って感謝している。
◆小松茂会員
尊敬する二人の先輩の後では話すこともありませんが、個々の立場でいろいろと経験し感動したので私的ではありますが話します。
山崎会員は、私の人生に大きな影響を与えた人です。私は、81年7月小口貴弘会長・上田善太郎幹事のときに小林新三・小松昭太・久保田藤蔵・込山諒会員ら4名と旧ぬのはんの例会場で入会しました。緊張し、今でも鮮やかに覚えています。
私の入会のきっかけは、山崎壯一会員です。私は、32年に薬科大学を卒業し、実家に帰ってきてから10年働きました。そんな時、道で会っても人の顔を見ずに上を向いたまま歩いている方がいました。この人が山崎さんでした。なぜ上を向いて歩くのかとつい3〜4年前に聞きました。時計の修理の頃は、下を向いて胸を折っていたので「肺の病気にならない様に姿勢を良くし、空気を吸っていた。」と話を伺い感動しました。山崎さんは、気になる人でした。
ある日、山崎さんは、私が入会する3年位前に家に来て、RCに入会するように言われましたが私はまだだと断りました。1〜2年し、また来て頂きました。私は会社の代表者でもないとまた断りました。その後、55年にまた来て頂きました。このとき、私は父に代わって代表となっていました。3回まで来て頂き、断る理由も無かったので三顧の礼となり、入会することにした。個人的なことかもしれませんがこのような経緯で私は入会しました。
入会したとき私は、感銘を受けました。何も分らない私たちに藤原・松井・寺島各先輩が配慮していただいたことです。次年度私は、SAAになりますが私が会長のときに藤森次期会長には幹事をやっていただいたことなのでやることにしました。SAAは、RCを取り仕切る他に多くの先輩がそれぞれの立場で暖かい心使いをすることが大切と思っています。
三井会員も言いましたが松井氏の笑顔が大変すばらしいと私も感じています。林氏は、幹事になったらゴルフをしたらと手袋を頂、ゴルフをやり始めました。これが私のゴルフのきっかけとなった。ゴルフをするからには会員権を買おうと思っていると平林氏が持ってきてくれ買うことが出来ました。当時の理事長は、寺島先生であり、例会のとき御礼を言うと良い買い物をしたねと喜んでいただいた。
藤原正男氏。
例会で藤原さんから戦争で戦地にいるとき、捕虜の扱いが残酷で、処刑の現場にいた経験をしたとの話しがありました。それを受け、私がグループで話をした際、私の話さない言葉で話したねと言われました。また、国際交流や諏訪湖浄化にも尽力を尽くされました。国際交流に力を入れられたのは戦争当時の贖罪の気持ちが強かったからですかと藤原さんに問いたかった。
商工会議所で委員をやっていた頃、藤原氏が病気になり亡くなる1〜2ヶ月前にウォルマートの規制についての記事を私に知らせてくれ勇気付けてくれたことを思い出します。